vol.14の2
人類[サル目(霊長類)ヒト科]というものは、、、

2、続・消せない記憶

 マイクは二十歳の頃、89〜92年の間、アーミーに入隊している。そして「砂漠の嵐(デザートストーム)作戦」と呼ばれた湾岸戦争に兵隊として、イラク、クェートへと出兵される。やはりその中でも人種的な差別があったのだろうか?

 「ああ、もちろんだ。便所の掃除や、危険なことは俺達の仕事だった。いいか?1950年代の頃、軍隊は人種で部隊を分けていた。全体の約75%が白人だった。黒人は15%、アジアン、スパニッシュが10%ぐらいだった。その中で、最前線に行く半分は黒人だった。今はどうだと思う?最前線へ行くのは貧乏人だ。そして貧乏人ってのは、、、分かるだろ、そうゆうことだ。変わってはいないんだ。結局は、、」

 彼の言葉と言葉の点が少し、線で結ばれたように思う。線は記憶となり、次の点へと向かってゆく、、、私は彼との会話の中、彼の言葉は記憶であり、そこに影を感じていた。その影の正体がうっすらと見えてくるにつれ、一つ、疑問を持つようになった。

 ”光は何処へ?”

 続く記憶、そこに影があるならば、また光も何処かにあるはずである。私はそれを彼に聞かなかった。いや、聞けなかったのかもしれない。私は恐れていたのだ、彼が、そんなもの見えはしなかった。と、深いため息まじりに呟きはしないかと、、


3、何故、貧しいのか、、

 彼等の感じる”人種差別”が、もし記憶の積み重ねであるとすれば、”貧困”というものは、はたしてどうなのであろう。何故、貧しいのか?彼は間髪入れずこう答えた。
「チャンスが無いんだ。」

 彼の言うチャンスとはいったい?
 「いい仕事を持った奴は、皆、大学を出ている。じゃあ、俺たちも大学を出ればいいと思うだろ?しかし大学に払う金がないんだ。俺たちの親の世代も同じだ。中にはデキル奴もいるんだ。しかしそいつが、その家が金を持っているとは限らないんだ。チャンスとは金のことかって?あるいはそうかもしれないな。」

 私は彼の言う具体的な少なさは分からない、それでは質問を少しかえてみよう。何故、チャンスが無いのだろうか?一つは金であろう、、
 「ある奴は働くし、ある奴はそうではない。朝から晩まで全く違う時間を過ごすが、こいつらに共通点がある、なんだと思う?金のことはさっき言ったよな、人種についても言った、だが一番の問題は、未来が無いんだよ。こいつらはよりよい仕事は絶対得られないんだ。どんなに一生懸命、働いても、、、無理なんだ。」

 (私は、日本人の感覚として述べさせてもらえば、まだ、彼等の一生懸命という言葉には何かが、いや、むしろ何もかもが足りぬ、と思っている。誤解を招くとも思うが、それでも私はそう思う、この話は後々に述べたいと思う。)私は彼に、怠け、という理由もあるいは存在しているのいではないか?と、聞いた。

 「それもあるよ、でも、全ての奴が怠けている訳じゃない。(私も全てとは言わない。しかしその数は多、、、やめておこう。)それでも原因について言わなけりゃならないなら、それは全てがそうさせているんだ。」
 全て?人のこと?環境のこと?社会のこと?または、その全てのことなのか?

 「そう全てだ。それは俺でもあるし、お前でもある。この町でもあるし、国でもある。結局は奴らなんだけどもな。実際、怠け者は多いと確かに思う。まじめではないと思うだろう。しかし奴らの生まれた場所は、そんな環境ではないんだ。教育にも、学校にも問題はある。大切なことを教える奴がいないんだ。周りの大人も知らないんだ。社会に触れたときには、、、もう遅いんだ。俺は何かをやるときにすでに遅いなんて思わない、、、、でも、遅いんだ、、、」

 ああ、私は彼の言っていることをどこまで理解できているのだろう。英語がうまく聞き取れないということを言っているのではない(それも確かにあるのだが、それを認めてしまったら、この文が成り立たない、私は必死で彼を聞こうとはしている。)彼の言葉にある、その意味が理解できているのかと、自らに問いただしているのだ。

 それでも彼の言葉を追っていくならば、そう、それは、原因は私なのかもしれない。あなたでもあるのだ。
 彼の言っていることとは、我々が持つ、”イメージ”というものなのではないか?TVで、新聞で、その口で、あるいはその目で、触れたものが、全てになってはいやしないか?(私はそうであったし、今もそうかもしれない)

 あえて例はあげまい、今あなたが思い浮かべたその人が彼等である。『他人は自分を映す鏡である。』という言葉が真実のかけらに触れているのならば、彼等は映った自分の姿(我々の表情、その態度、)に悲しみ、怒り、そして慣れていってしまうのではないか、その慣れこそが、怠けにつながるとも言えなくはないと私は思えた。

 環境、、それは確かに、原因の多くを占めている、とは思う。中流階級が行く学校と、貧困層が行く学校では、その年間の予算が大きく離れていれば、また教師への給与にも差があり、それは自然と質にも現れる。教育というものは学校の目的であり、ただ休み時間を過ごしたり、黒板にあるものを写すだけの場所ではない。(今頃私は気づくとは、、、)ただの手段となっているのが今の学校の姿なのではないのか。(大学、就職への、)しかし、それさえもなされていない場所があるというのならば、そこはいったい何なのであろう?彼等はここを檻の中と感じたことは無いのだろうか?

 話はそれたが、大人の在り方も、やはり問題である。彼等の姿を見て子供は育つ。私がまだ、少々、治安の悪いゲットー地区に住んでいた頃のことだ。朝の7時頃に、私はいつも家を出ていた。外には夏休みなのだろう、小さな子供や、高校生くらいの子、その親らしきもの達が、アパートの前で座ったり、喋っているのを見かけた。私は(誰が大人で、子供か見分けがつかないな。)と、笑いながら、地下鉄へ向かった。

 夜、11時頃に帰ってくると、彼等は朝と同じようにそこにまだいた。(こっちはこんな時間まで子供が起きているのだな。)位にしか思っていなかったのだが、それが、毎日、毎週のように見かけると、ほぼ毎回、いるもの達が数人いる。大きな子供がいてもおかしくないほどの年齢のものもいるだ。ルームメイトに聞いてみると、「あいつらいつもあそこにいるよ、仕事?さあ、何かたまにしてるんじゃないか?」との答え、私はその時、(ここに大人はどのくらいの数、存在しているのだろう。)と、思っていた。

 大人、というものの考え方は、国により、さらに人により、様々だろう。しかし、あれは私の思っているそれの姿ではない。彼等は子へ、何を教えられるのだろうか、社会に触れる、その前に。彼等はその時に、あるいはその瞬間にしか得られないものを、得るチャンスというものがないのかもしれない。またそれが、彼等にとっての日常となってしまっているのか、、、

 それではもし、彼等の言うチャンスが、彼等に訪れたならば、彼等はそのために懸命になることができるだろうか?私は残念ながらそうは思わない。それは彼等に感じる怠けが原因でもあるだろうし、また、前にも述べた、私が日本で育った故、感じる懸命さの捉え方の違いでもあろう(週6日、分刻みのスケジュールの仕事、時間通りに来る地下鉄やバス、そこかるくるストレスに耐えられるだろうか?今、日本人は耐えきれずにいる。)

 懸命になったからと言って、貧困から抜け出せるとは思わない。しかし、懸命にならずして貧困から抜け出せるとはさらに思えるはずもない。それでも、確かなことはやはりチャンスを得ることなのだろう。

 絵描にきはキャンバスを、音楽家には楽器を、作家には筆を、、、何を選ぶかは、彼等の自由なのである。 与えぬまでも、奪うことなく、そうでなければ、人は何者にもなり得はしないのだろう。

  3、何故、貧しいのか、、つづく――――
               (文と写真:中屋 一生)



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