vol.14の5
人類[サル目(霊長類)ヒト科]というものは、、、 |
|
7、続・私にとっての”経験” ここまで、私は”ハリケーンという災害”がつくり出した穴を埋めるように、またはさらに深く掘るようにしてこの文を聞き続けた。しかしそれは同時に、私という者の中にある(私にとって)大きな穴でもあったようだ。 そして私は自分の一つの答を掘り当てた。災害の方はどうであったろう、それはさらに奥深く私という者を超え、生きる者の真理というものがそこにはあるようだ、、
8、生きるということ
もしも、あの災害から、何かの答を見つけなければならないのなら、それは何であったろう、人種?差別?または貧困?その言葉達がどんなに真実を不透明なものにしてきたか。それらは真実ではない。私が触れてきたものはいずれもそれぞれの一つの見方、考え方であったに過ぎないのではないだろうか。 人種差別というものは災害が起きようが、起きまいが、どこにでもそれは必ず存在するし、またそれは貧困も同様、災害がもたらすわけではない。人が、、、人間によって生み出したものなのだ。 私は今までいったい何を話し、考え、また観ようとしたのだろう、、、全ては果実の皮、その一枚、一枚を剥くだけのような、そんな行為を続けていたかのようだ。それではいつ果実に触れることができるのだろう、真実の実はどこへ。 それはあるいは私が見つけ出したように、それぞれの者の中に、生きている者の中に答はあるのかもしれない。そして災害後のあの人的災害の多くも、そのために起こったのではないか、そう、”生きるために”。(そうではないものもあったのだが。) しかしその答は私の得たものとは道も、形も違ったが、もし私も彼等と同じ道にいたならば、どのようになっていたかはまた分からないのである。それはある意味、彼等もまた私自身の姿である、ということでもあるのではないか。 今も昔も地震、津波、そしてハリケーンと姿を変え、自然は私たち生き物に猛威をふるってきた。しかし自然は一度として人種も貧困も、人も動物も植物も選びはしなかった。その後、“人”が選んだのだ。 私はそのとき、ただその場にいなかった。それだけなのであり、それだけの理由で私は今も生きているのだ。この大きな世界から観れば私はそういう存在なのだ。それは彼等も同じであり、そこには人種や差別も貧困も存在しない。 自然には何も関係のないこと、私も彼等も一緒なのだ。もしそう思うのならば、あの日ニューオリーンズでは多くの“私の姿”がなくなってていってしまったのか、、、それこそ確かに”自然的”考えではあるように思えるが。 正直、今の私にはそのように思うことはできても、感じることはできず、そのように振る舞うことさえできない。それが皆できないのだから、問題があり、国があり、私たちが在るのだ。だから私には”観る”ということが必要だと感じたのかもしれない。 自然は今も私たちを観ているだろうか、「それでも人は、人類というものは”どのように生きるのか”」と、私たちは自然に試されているのだろうか、、、 人は一人では生きてはいない。 終わりーーー
(文と写真:中屋 一生)
お読みになった感想をissei45456@hotmail.comまでお聞かせ下さい。 |