vol.17
ジムの風景 ---ザブ・ジュダーのしたこと、、、---
 1月7日にNY、MSGで行われた世界ウェルター級統一王者ザブ・ジュダーがWBC同級1位のカルロス・バルドミールに僅差の判定で敗れた。地元での凱旋試合、この後に控えるフロイド・メイウェザーとのビッグマッチを考えると、ジュダーは自らのためにも勝たなければならなかったし、勝てる試合だった、と皆、思っていた。
 私もそれに漏れず、ジュダーvsメイウェザーというカードは互いが達したことがいまだなかったであろう、自身の未知の世界に触れ合う瞬間になるだろうと思っていた。久方ぶりの観るべきもののある、名だけではない”内容”のあるビッグマッチになると信じていたのだ。
 しかしジュダーは破れ、夢のカードは幻となり、その幻のカードが、今後の私にとって夢のカードとなってしまった。
 ここまで書いておいてきながら実は私はまだこの試合を観ていない、観る必要はないのだ、と思いはじめているのだ。喪失感、そして失望感ががそうさせてもいるのだろうか、いやそれだけではないはずだ、という思いの中、私はペンを走らせた。
 そんな私に彼の何が語れただろうか、、、

 ザブ・ジュダーは私と同じグリーソンズジムでトレーニングをしている。してはいるだが、いつも試合前になるとどこかでキャンプを張り、その後は試合のある州で当日まで調整をしているのだ。よって私の知りうるジュダーは試合後の姿であり、トレーニングも同様の時期のみだった。
 そう、私が語れる彼のことは、少しもないのかもしれない、しかし揺るがぬ事実がある。私が見てきた彼の姿だ。
 クリスマス前からジュダーの試合までの約一ヶ月間のことだ。
 夜の8時頃、ジムのリングの上にはザブ・ジュダーの姿があった。今回このタイトルマッチはNYで行われるためジュダー陣営はこの時期、グリーソンズでトレーニングをしていた。
 試合が近づくにつれ、ジュダーの姿をジムで見かけることが多くなった。その時私が見たのは他のジムの選手を呼んでのスパーリングだった。
 相手は薄い褐色に近い肌を持った、幾分ジュダーよりも背の高いおそらく同階級の黒人だった。どれほどのレベルであるかは定かではなかったが、ラメの入った感のあるトランクスの派手さから見て、プロであることは間違いなさそうだった、あれをはいてくるのだ、この日は気合いが入っていたのだろう。
 スパーの中でジュダーはそのトランクス程の輝きを持たぬ黒人選手を何度も棒立ちにさせた。とにかくラッシュ時のジュダーの連打はコンビネーションと呼ぶには荒すぎる気もしたが、相手に手を出す暇を与えなかった。これが世界戦前のトップボクサーの練習なのだな、と私は思った。  5ラウンド目が終わった時点で相手の選手はトレーナーに腕をとられるようにリングを降りようとした、予定していたラウンド数がやっと終えたのだろう。
 ジュダーのコーナーからは皆、「One more! One more!(もう一度だ!)」と叫んでいる。スパーを見ていた周りにいる多くの者達も当然のように後に続いた。ここではよく見る光景だ。そんな中、リングの上でジュダーは吠えた、「来い、もう1ラウンドだ!そしたら今度はお前が次のチャンプだぜ!」
 相手の選手はリングのエプロンに座り、うつむいたまま何も言うことはなかった、、、、

 初めてジュダーを見たときのことだ。
 その時も彼はリングの上にいた。様子からしてスパーのインターバルだったようだ。しかしすぐにそのリングの異様な雰囲気に私は気付く、1、2、3、4、、、相手が4人、は〜、こんな練習もあるのか、、!?
 「4人いる!?」
 思わず声を出してしまった。
 ゴングが鳴ると子供がじゃれるように、皆が同時にジュダーに襲いかかった。本気で殴り合う訳ではなかったが、本当のことだった、本当のことなのだ。
 あれはきっと試合後のオフだったのだと思う、、、

 またある日のこと、長いこと、ジムに来てから2〜3時間が経ち、ようやく動き始めたジュダーがまたスパーの用意をしていた。準備運動もシャドーもなかった。

 私は数少ない彼を見た日々の中、ただの一度もストレッチをしているところを見たことがない、それは彼だけに限らず、このジムにいるほぼどの選手にも同様に言えることではあるのだが、、、
 この日の相手はそれほど経験があるようには見えないジュダーと同体型の黒人で、どうやら仲間のようだった。彼は避けるだけでパンチは出さなかった。スパーは次第に相撲のようなクリンチの仕合になり、それはやがて柔道へと移っていった。
 足を払い合う、
 払う、
 払う、
 しかしどちらも倒れない、
 パンチももはや飛び交ってはいない、そしてジュダーはリングにしゃがんだその瞬間、無理矢理巴投げを試みた。
 相手はジュダーに多いかぶさるようになり、またいつかのようにじゃれ合い、スパーは終わった。彼のこの日の練習もこれで終わった、、、、
 あれはきっと試合後の、、、で許されるのだろうか、あれは私の中であり得ないことだった。
 練習をしている時もある。サンドバッグにパンチを打ち込む姿は圧巻だった。それでも、、あの時のことを忘れることができなかった忘れられなかった。
 彼はあのとき世界王者に返り咲いていたはずだった、、、

   トレーナーのマイクに愚痴のように私はジュダーの練習態度についてぼやいていた。そんな時彼は言ったものだ。
「トレーニングはしてるさ、ただお前の見てる時にしてないだけだ。確かにジュダーはここではあまり練習をしていない、でもな、アイツだってキャンプのときはきついトレーニングをしているぞ。そしてアイツは何より勝ったんだ。」
 そうなのだ、ジュダーはそれで勝ってきたし実際、彼の統一王者になるコーリー・スピンクスとの第2戦戦前の練習は相当厳しいものだったららしい。
 私がジムに朝から夜までいる訳ではないし、彼が最も厳しいときを見逃していることも確かだった、私はマイクの言葉を信じ、ジュダーを信じることにした。
 それは彼が世界中のボクサーが絶望する頂点の一角であったからだし、あの遊びが事実であったように、彼が勝っていることも事実なのだ。

   試合二週間前、それはボクサーにとって最もきつい時期のはずだ、少なくとも私はそう思っている。減量に疲労の蓄積、様々なものが彼等の体を蝕むのだ。
 ジュダーの場合はどうであったろう、調子も悪そうではないし、減量も今の階級ならばそれほど苦しくはないはずだ。彼は170に届くか、というくらいの背しかない。この階級では小さすぎるようにも思えた。それでも王者になれるのだからその才能の恐ろしさを感じずにはいられなかった。
 スパーリングが始まった。この日の相手はアマチュアの選手数人であった。少し早くも思えたがもう調整の段階だったのかもしれない。
 しかしこの時、彼がしていたことは調整などではなかった。またもや”遊んだ”のだ。
 相手のスパニッシュの選手はあらゆるパンチを出すが全くジュダーには当たらなかった。最初は避けて軽く手を出す程度だったジュダーだが、次第に攻撃をし始めた、ただし頭で、、、
 両手を後ろに組むようにして時折、頭をゴリゴリと相手に押し付ける。その圧力は手を使っていないにも関わらず、倒してしまうのではないか、と思わせる程だった。
そして相手がパンチを出せばジュダーは避けてしまうのだ。
 するとジュダーは突然、両手をキャンバスにしゃがみこみながらつけ、相手の死角となった足下から、強烈なアッパーを突き上げた。”蛙飛びアッパー”を出したのだ。その時は誰もが驚いた。
 相手は倒れることはなかったが、動きが止まり、何が起きたのかを理解していないようだった。スパーが一時止まった。
 ジュダーは、と言えば打った直後に後ろを振り返り、
「おい!今の見たかよ?」
 などとギャラリーと話をしていた。
(本当にこれから彼は世界戦をやるのだろうか、、、)
 騒いでいる彼等をよそに私がそう感じたのはおかしかったのだろうか、、、
 その後もスパーは続いたが終止、ジュダーが軽く流して終わった。
 また違う日にはネパール人をリングアウトさせていた。

 この約一ヶ月で見せたジュダーの姿は私をそしてマイクを裏切った。そして彼は自分の場所を目指していたボクサー達、全てに対して裏切ったのかもしれない。
 どんなことをしていても、それでも時がくれば、と私達は信じていたのだ。だが、彼の練習は私達が想像していたものではなかった、、、
 それでもあの時は、彼が負けるとは思ってもみなかったし、負けてほしくはなかった。その先が見たかったからだ。そのことにおいてのみ彼の存在はプロと呼べたのかもしれない。

 私はザブ・ジュダーというボクサーに対し、一貫して感じていたことは、強く、その圧倒的な存在感をリングの外では感じられなかったことだ。オーラと呼んでもよい、頂点に立つ者達が持つであろうそれを彼からは少しも感じなかったのだ。輝いてみえたのはただ彼が身につけたジュエリーばかりだった。彼は私にとって何者でもなかった。
 しかしそれはつまり、私が持つ王者のイメージと、彼の姿が重なることがなかっただけなのかもしれないのだが。

 彼があの蛙飛びアッパーを出した時、その隣のリングではアマチュアのボクサー達が大会に向けてのスパーをしていた。疲弊しきっていたが、それでも手を出し合っていた。
 そのリングを見ている者はただの一人もいなかったと思う、私も盗み見していた程度だった。彼等のトレーナーさえ遊ぶ統一王者を見ていたのだ。

 その風景はあまりにも残酷だった、、、
 そして、
 私は誰が隣でスパーをしていたのか、思い出せない。 

               (文と写真:中屋 一生)



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