vol.27
ジムの風景 ---リアルな現実---

 一言も言葉は無かった。
 この日試合をしたウェスは俯いたまま何を思っていただろう。 トレーナーであるマイクの声が控え室で激しく響いていた。
 大きな部屋をロッカーで区切った控え室では、隣で次の試合を控える選手が柔軟体操をトレーナーとしていた。私達のいるロッカーから来る、張りつめていたものが切れてしまった、破壊的なその空気は彼等にも否応無く届いただろう。
 怒り、放心、剥き出しにされた人間の感情が時間の流れを酷く、遅くさせた。 私はこの日、ビデオカメラを撮り続けていた。  ビデオカメラのモニターに映る彼等の姿は、実に生々しかった。しかし私には距離があった、ファインダーたった一枚が、あれは向こう側で起こっていることなのだと思わせる程の距離をもたせた。
 その距離は私を残忍にさせた。声を張り上げるマイクを、俯いたままのウェスを私は撮り続けた。 そして、私はウェスに近寄り、モニター越しに彼の顔を映し込んだ、、、、

 2月10日、昼の一時半頃、私は仕事を早く切り上げ、42丁目にあるグランドセントラルステーションへと向かっていた。空は曇り、風が冷たい冬の日だった。 地下鉄の中、私は空腹感を覚えた、そういえば家でシリアルを食べてきたのみでまだランチを食べていなかった。
 駅に着いたのは2時頃で、集合場所の時計台のある駅の中央には多くの人々が集まっていていた。私はなにか食べ物でも買おうと思い、駅の地下へと向かった。 地下にはピザ屋、サラダバー、中華料理屋にパン屋等、一通りの店が並んでいたが、迷っているうちに待ち合わせの2時40分まで後、5分に迫っていた。

 待ち合わせ―-―もはや私はアメリカ人の時間に対する約束を信じてはいない。待ち合わせをする相手に対し、期待や裏切られることに感情を動かすことの無意味さを教えてもらったとさえ感じている。
 同じ時刻の中で生きているとは思えない時間に私の前に現れる友人の姿や、予定時間通りには進まない各種イベントに、生きる頼もしさを感じるまでに私の感覚もズレ始めている。アメリカには確かに時差があるようだ。  結局、私はチョコレートを少し買い、集合場所へと向かった。

 そこに着いた私は周りを見回すとほぼ同じ時間にマイクが大きなリュックザックと、試合に使う物を入れた救急箱のようなバッッグを持ってこちらに来るのが見えた。
「まだ誰も来てないみたいなんだ。」
 私がマイクに言うと同時に、彼のプロの選手であるアポロも私達の方にやってきた。コーナーを手伝うために来たようだ。
 当初、彼もこの日に試合をする予定だったのだが、相手に逃げられてしまったのだ。プロ2戦のキャリアで既に三度目のことだった。オリンピック候補になった程の彼の相手を捜すのは容易ではないようだ、そしてこの国では試合のキャンセルが一週間前や前日でも通常のように起こる。理由等は誰も気には留めない、やれるのか、やれないのか、それが重要なのだ。彼はまた待ち続ける。
 私達が集まる後ろの方からこの日の試合をするウェスと、コーナーを手伝うグラントという白人のグリーソンズでトレーナーをする男がやって来た。彼等は少し離れた場所でかなり前からもう待っていたらしい。
 マイクが私に言った、
「だから今日は皆、日本人時間に来ると行っただろう?」
 普段私とマイクが時間を決める時、私は彼に尋ねるのだ、それはアメリカンタイムなのか、ジャパニーズタイムなのか、と。要するに時間通りなのか、曖昧なのかということだ。そのためこの日、皆が時間通りにここにいることが少し私を驚かせた。できればもっと違うことで驚いてみたいのだが、、

 グランドセントラルから列車で約30分、そしてそこから更にタクシーで10分程の場所にこの日の試合会場となるアイオナカレッジがあった。会場となる体育館へ行くとまだ皆が準備をしている最中だった、どうやら早く着きすぎてしまったようだ。

 私達は体育館から少し離れた休憩所で時間が来るまで休むことになった。外は柔らかな雪が少し降り始めていた。その休憩所ではソファがいくつかあり、テレビが壁にかけられていた。それぞれ適当な場所へと座り、私は近くにあった自動販売機でチップスを買った。それを食べながらテレビに映るミュージックビデオをぼんやりと見ていた。

 ウェズリー-ホッブス、去年のゴールデン-グローブス、ノービスの147パウンドで優勝をし,昨年の11月にプロデビュー、判定で初のプロ白星を飾った。肌の色の薄いアメリカン-アフリカンの彼は身長が180を超え、手足が長く、頭の小さい、ボクサーにとって非常に恵まれるといわれる体型をしている。また大学へはバスケットのプレーヤーとして推薦入学を果たす程の身体能力も併せ持っていた。その大学を中退と同時に始めたボクシング、そこで彼はプロとしてのやっていくことを決意した。そしてこの日が彼のプロ第2戦となる日である。

 ウェスはベースボールキャップを深くかぶり、目を閉じていた。マイク達はテレビを見ながら特にボクシングとは関係のない話をしていた。自分も次第に眠くなりだし、私は目を閉じ、夢でも観るか、などと呟いた。



 私が目を覚ましたのはそれから2時間程経った頃だろうか、辺りは暗くなり寒さが目に見える程だった。窓の外を見てみると、雪は細かな冷たい雨へと移り変わっていた。マイクが「そろそろ時間だ。」と言い、私達は体育館へと再び向かった。
 体育館では学生らしい若者達やその家族、または今夜の試合に出場する選手を応援する人々が集まっていた。リングサイドではこの大学のチアリーダーだろう、少女達が何やら打ち合わせのようなことをしていた。これらの雰囲気はボクシングの会場というよりむしろ、学園のスポーツ行事のようなものを感じさせた。
 そしてここがウェスの、ウェズリー-ホッブスのプロ第2戦となるリングであった。

 誰にでも何かを続ける中、”きっかけ”という瞬間が一度は訪れ、またその時に、自分の持てる能力、全てのモノをみせることができたなら、その者だけが”成功”というものに近づけるのだとしたら、あるいはこの日、彼等にとってその瞬間がまさにこのときだったのだろうか、、、、
 ウェスの、マイクの手には何が残っただろう、、私が見ていたものは決して夢ではなく、感情と共に存在する現実だった。

 私は観客席からウェスの試合をビデオに収めるため、バッテリーの充電を行っていた。ウェス、マイク、アポロとグラントは控え室へ入っていき試合に向けての準備を開始した。
 この日、試合に出場した多くの選手がプエルトリカンだった。それはメインの選手がそうであったからだろう。そしてウェスの相手もまたプエルトリカンだった。
 ウェスは6試合目に戦うこととなっているのをセコンドに着くグラントが私に知らせてくれた。観客はそれほど多くはなかったがボクシング、それ自体を楽しんでいる彼等の姿にはボクサー達がここで戦う価値はあるのだということをみせてくれていた気がする。

 酷く凡庸な試合が終わり、それでも観客からは拍手があったそんな試合の後、いよいよウェスの出番となった。黒い布地にスパンコールと紫のラインの入ったトランクスと、ガウンを身に着け、肩を揺らしながら、マイクを先頭にウェスがリングに登場した。
 相手もプエルトリカンではおなじみな自国の国旗をかたどった白、青、赤のトランクスをはいた、背の低いガッチリとした体型の選手だった。147パウンド、共に一勝同士だったが、プエルトリカンの多いこの会場はウェスにとってほぼアウェーのような状況だった。
 両選手の名前が呼ばれ、歓声とブーイングが起こった。

 こんな状況下にマイクは、彼の選手は慣れていた。いつも彼等はこのような中で戦い続けているのだ。トレーナー、セコンド,マネージメント、マッチメイク、そしてスポンサー、つまり金銭的な選手への援助と、今のマイクはその全てを行っている。
 そして今、彼は少なからず一人で全てを行うことに限界を感じ、実際彼がしていることのそれは限界を超えていた。誰かが、彼等に力添えをしなければならい、今はそんな時なのだ。

 試合の立ち上がりは静かだった。長身でサウスポーのウェスは右回りにサークルを描きながら相手の様子をうかがっていた。相手はそれを追う、という形がこの試合の展開となった。その後、ウェスは避けるばかりで効果的なパンチを打つことができなかった。コーナーやロープに詰まっても移動せず、ボディワークのみで相手のパンチを避けようとするため、時に被弾をしていた。動きの鈍い彼は私を不安にさせた。
 だが、私はそれをただ無機質に努め、そしてそのように撮り続けた、、、



 「今日、スポンサーになるかもしれないミリオネアが来ていたんだ、、、」
 帰りに乗っていたタクシーは小雨に打たれながら駅へと向かっていた。その中、マイクはそう呟き、更に続けた、
 「相手を買うのにも、キャンプを張るのにも、タイトルマッチをするのにも、金が、金が必要なんだ。そして、その金を出してくれるかもしれないミリオネアのスポンサー達が今日、来ていたんだ。」
 マイクがウェスとアポロの試合をこの日組んだのは、彼等をそのスポンサー達にみせるためだった。その試合内容によって彼等は大きな契約を結ぶことが内定されていた。マイクはこのNY郊外まで彼等を呼ぶまで2年という時間をかけ、そしてとうとうそのチャンスを掴んだ。彼にとってそんな日だったのだ。

 しかしアポロの試合が流れてしまったため、その全てはウェスに託されることになっていた。
 「試合が終わったら会うことになっていたんだ。だが、皆、帰った。3人いたミリオネアのうち誰一人残っていなかったんだ。俺達のすぐ隣に大金が積み重なっていたのに、全部消えちまったよ。」
 前の席に座っていたアポロも静かに漏らす、
 「俺には試合をするチャンスさえ無かった、あれがチャンスだったとウェスは分かってなかったんだ。」
 ウェスは試合前そのことを知っていたのだろうか?

 「ああ、ちゃんと話してあったさ、だがアイツあんな寝ぼけた試合やりやがって、分かってなかったんだ。あれが人生を変えるきっかけになるかもしれない程の試合になることを、、プレッシャーに潰されたんだ、、、」
 試合後の控え室で確かにマイクは声を張り上げ、ウェスを罵倒した、しかし一言としてスポンサーのことなど口には出さなかった。あくまで試合に対してのものだったのだ、、、

 私とマイクは後部座席に座っていた。私は左側に、マイクは右側に、夜の闇がタクシーを覆い、マイクの表情をより暗いものにさせていた。
 その横顔、右頬と右眉の間には眼があり瞳があった。それは唯一闇の中で僅かな光を帯びていたが時折車内に差し込む街頭の灯りはその瞳さえかき消してしまった。
 グラントは先に帰り、ウェスは見に来ていた家族とともに帰っていった。駅に着き、ホームまで行くとそこにはそのグラントがベンチに座っていた。私達よりも40分程早く出ていたはずだった。
 「電車がちょうど行ってしまったんだ。つぎのまで1時間程待たなきゃならない。」  時計を観ると、既に11時半を回っていた。私達四人はホームのベンチに座り、電車を待った。

 薄暗いホームの中、マイクは罵り声を張り上げ続けた。ウェスに、多分スポンサー達に、そして自分の人生に、、、彼は落ち着き始め、声も次第に聞き取れないくらい小さいものになっていた。

 「俺の人生だってかかってるんだ、、、ゲームじゃないんだ、、、」

 マイクは一度うつむき、一息ついてから夜空を見上げていた。
 そこには星はなく、冷たい冬の雨がまだ少し降り続けていた。

 翌日の朝、私はジムに行くとマイクは他のトレーナー達と笑いながら話をしていた。思っていたよりも元気そうだった。
 「昨日は大変だったな。まぁ、どうだった、あれがリアルだ。」
 私はなんと答えていいのか分からず、ただ相づちを打っていた。すると、
 「今日、スポンサー達と連絡がとれたんだ。まだあの話は続いている。まぁ、これもリアルだ。」
 そして私にマイクは言った、
 「ところで、お前のビデオ撮影よかったぞ、次もな。」

 ウェズリー-ホッブス、現在の戦績は2戦1勝1引き分け。次戦は3月10日、コネチカット州、フォックスウッツのカジノで試合”予定”となっている。
―――終わり

               (文と写真:中屋 一生)




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