vol.32
ジムの風景 --- 見えたもの ---
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ウェスがシューズの紐を結んでいる。ふくらはぎの下まである黒いリングシュージを編み込むようにして上へとたどる。マイクに急かされウェスの顔は若干こわばっている。右のシューズを履き終えると今度は左のシューズの紐に手をかけた。 アポロがウェスの鞄からワセリンを取り出し、ウェスの体に塗る準備をしている。マイクは試合に使うものを整理しながら係員にはっきりとした口調で尋ねた。 「だから俺達の試合はいつなんだ?1試合目か?2試合目なのか?聞いてるのはそれだけだ。」 3月31日、私達はコネチカットのモヒガンサン-カジノでのウェスの試合のため、夕方の5時頃に控え室に入った。7時半に開始される第2試合目がウェスの出番だった。私達は余裕を持つため誰よりも早くここへ来たのだ。 しかし第1試合に出場する選手が6時半を回っても控え室に姿を見せなかった。 「君たちが第1試合になるかもしれない。」 係員がそう言う頃には既に時計の針は7時を指していた。それでもその係員は念を押すように、「多分だ、多分。」などと明確な答をよこさなかった。どちらにしろ私達は幾らか急いでリングへ向かう準備をしなければならないようだ。 「君たちが第1試合だ。15分後に呼びにくる。」 係員はそう言い残すと、足早に控え室を消えていった。 「ウェス、体を動かせ、シャドーを始めるんだ。」 ウェスはフェイントをかけるように体を揺らし、サウスポースタイルの右のジャブを2発、3発と続けて出した、そして左のストレートへと繋ぎ、相手のパンチを想定するように体をスウェーバックさせた。 マイクが素手で、ウェスのパンチをミットのように受け、左腕をフックのように振った。ウェスは先ほどと同じようにスウェーバックし、カウンターの左を打ち抜く動作を肩で表した。マイクがブルファイターのように彼との距離を詰めようとすると、ウェスはマイクの肩にグローブを引っ掛け、瞬時に体を入れ替えた。マイクは2度頷き、シャドーを続けるようウェスに視線で伝えた。どうやらコンディションは悪くない、集中もできている、急な順番変更もさして影響はないようだ。 「もう20分ほど待ってくれ。」 と、今度は待てと言う。今夜のメインはESPNでのライブ放送があるため、その時間調節を再びしなければならなくなった、とも言いい、それを聞いたマイクは少し表情を緩ませウェスに座ってろ、と言った。 この日のウェスはチーター柄の半袖のガウンにトランクスを身に着けていた。ベルトラインと、サイドにはゴールドの線が流れていて、それはスマートな体型の彼にとても似合っていた。 20分後、私達は時間どおり呼ばれ、広い廊下を歩き、選手の入場場所までやって来た。私と共にセコンドに着く総合格闘技の選手スティーブは、私以上に緊張しているようだった。アポロはこの日観客席からの応援となったため、ウェスのグローブに拳を合わせ、アリーナの観客席へと歩いていった。 マイクとウェスの顔に緊張は見られない、自分はどうだろう、私は頭の中で繰り返し自分の与えられた仕事のことだけを考えていた。 (マイクの後に続いて、バケツを持ってリングに上がり、ウェスの首にアイスバッグをおく、マイクの後に続いて、バケツを持ってリングに上がり、ウェスの首にアイスバッグをおく。) マイクを先頭に、私達は赤コーナーへと歩き出した。マイクとウェスがリングに上がり、私も水を渡すためリングに上がった。そして周りを見渡した。 会場はかなりの観客を収容できる程の大きさのアリーナだった。二階席は使われず、アリーナを縮小させたように一階席のみに観客は座っていた。ラスベガスのカジノとは違い、このウェスの前座第1試合からモヒガンサンの観客は5割以上は席にいた。そしてウェスと相手の名前がコールされ、第1ラウンドのゴングが鳴らされた。 第1ラウンド、ウェスは積極的に手を出した。彼のボクシングは待ちのスタイルで、カウンターを得意とするものだ。普段はその待ちの間、ウェスはそれほどパンチを果敢には出さない。その彼が今日はジャブを立て続けに打ち、その多くをタイミングよくヒットさせた。 相手は固さが見え、それが彼を計量の時よりも少し小さく感じさせた。ウェスのジャブをもらい続けるとたまらず相手は大振りのフックを出した。ウェスはスウェーバックではなくウィービングをしてサイドに移り距離をまた保ちつつ、今度はジャブからの左ストレートボディを相手の腹へと打った。 相手は後退したが、すぐにまた大振りのパンチを振るった。それをウェスは肩でブロックしたり、スウェーをしながらタイミングを見ては相手のボディにフックを出し、ウェスがロープに詰まったところで第1ラウンド終了の鐘が鳴った。 私は予定通りマイクの後に続き、バケツをキャンバスへ置き、アイスバックをウェスの首へのせた。スティーブは椅子を即座にコーナーに置いた。 耳元で叫ぶマイクの声をウェスは瞬きをしながら頷き聞いていた。 (マイクは、、、叫んでいたのか、) 私はインターバル中、マイクはいつも選手の耳元で話している姿を見たならば、あれはささやいているのだ、と思っていた、しかし彼は叫んでいたのだ。その事実に僅かに動揺しながらも私はマイクの指示に従い、バケツを持ちリングを降りた。 試合が第2ラウンドに進む間、私はそのリング上のウェスと目の前にいたマイクの背中を交互に見ていた、、、 第2ラウンドもウェスは上下にストレートを打ち分け、相手にダメージを与えていた。時折、相手の変わらぬ大振りフックをもらうこともあったが、まともにもらうことなく、このラウンドを終えた。 「いいぞ、そのままの距離で戦うんだ。インファイトになった時、相手のボディを狙うんだ。」 頷くウェスの息使いが少し荒かった。いつも以上のハイペースで試合を進めていた ためだろう。ウェスに弱点と呼べるものがあるとするなら、それはスタミナにあった。そしていつもの手数の少なさの原因もそこにあるとも思える。 相手は第3ラウンドに初めて自分から動いた。途切れなくパンチを出し、そのいくつかはウェスに命中した。やはりウェスは疲れている、相手を見てフェイントだけで終わる時間が多くなり、クリンチする場面も増えた。マイクはその度に「ボディだ。」と叫んだ。ウェス以上に相手もまた疲れていたのだ。それはウェスのパンチによるダメージから来ていることは明らかだった。ラウンド終盤には相手もただ自分の体を預けるだけで手が出なかった。 私はこのまま行けば倒せる、と感じ、自分の手のひらには汗が少しにじんでいた。 コーナーにウェスが戻り、何かをマイクに言おうとした。多分相手が相当疲れている、ということを伝えようとしたのだろう。しかしその瞬間、マイクはそれを遮り、 「いいか聞くんだ。無理に打ち合うな、距離を保つんだ。ボディを忘れるな。」 ウェスはその一つ一つに、「イェス。」と答え、鼻で息をしている。そこにレフェリーが「これが最終ラウンドだ。」と、伝えにきた。そしてウェスは立ち上がり、ゴングが鳴った。 相手がウェスを追う、しかしその足取りは鈍く彼を捕まえることができない。残り一分に差し掛かる頃、観客の間からブーイングが聞こえ始めた。もはや一方的な試合展開にも関わらず、ウェスがフィニッシュを求めようとしないことに対してのものだった。しかしウェスはそれでも足を使い、最後のゴングが鳴った。 判定が読み上げられている間、観客からは変わらずブーイングが飛んでいた。そして勝利者の名を、ウェズリー-ホッブスの名前を読み上げた時、その声は更に大きなものとなった。 私はそのブーイングが理解もできたし、もし自分が他人としてこの試合を観ていれば同じことをしているだろうとも思えた。しかし何故だろう、リングに立つ私にはこのブーイングはそれほど嫌なものには聞こえなかった、むしろ心地よい程だった。私はマイクに言った。 「これ、別に気分悪くないね。」 「ああ、俺達は勝ったんだ。」 そう答えるマイクを見て、私は息をのんだ、 マイクの額からは汗が、それも大量の汗が流れていた、、、 決して彼等は楽に勝利した訳ではない。 ―――終わり
(文と写真:中屋 一生)
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