vol.36
ジムの風景 --- 一本の電話
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5月18日、私はいつもと変わらず朝の公園でベンチに座り新聞を読み、コーヒーを飲んでいた。すでに日差しは強く、上着を必要としない程だった。私の前を犬の散歩をしている人たちが幾人か通り過ぎた。それはまさしくいつもの私の朝だった。 一通り新聞を読み終えると、私は新聞をベンチの隣に放り出し、川岸に面しているこの公園のベンチから、その川の流れをぼんやりと眺めていた。そして、 (ここにいるはずではなかったのにな、、、) と、川の流れに対しぽつりと漏らした。 そう、本来ならば私は今日と明日、マイク達とともに、アポロ・ウェルツの試合のためNY、アップステイトのアルバーニへと向かっているはずだったのだ。そしてそこでは元USオリンピアンのロバート・ベニテスとの戦いが待っていているはずだった。 ちょうど一週間前、私が仕事後の疲労を感じつつ貧しい足でジムへと向かった夕方頃のことだった。マイクは笑いながら私に言った。 「ファイトは無しだ。」 「また?キャンセル?」 私は驚きはしなかったが落胆したのは確かだった、結局はまた、なのかと、、、。 「、、ああ、アポロもう戦いたくないんだとよ。」 「!?」 それを聞いた時、私はマイクの言っている意味が最初、飲み込めずにいた。 「アイツ、ボクシングを辞めたんだ。」 私は呆然としながら、マイクの顔を見つめていた、彼は柔らかい表情で笑っていた。しかし唯一、目にだけは例えようのないギラギラとした力がこもっていた。 「昨日な、アポロから電話があって、「もうボクシングを辞める、」って、言ってきたんだ。」 私はただ頷きマイクの瞳を観ていたが、そこに吸い込まれそうな感覚を覚え、視線を落としてしまった。 「長い間、電話をしたんだけどな、最後までアイツ言わなかったんだよハッキリと、何故辞めるのかを、、、つまりそれはあいつ自身も理由が分かっていないんだ、多分、アイツの母親が何かを言ったんだろう、それなりにリスクのある大きな試合だったからな。 だが、俺が聞きたかったのはそんな他人の言葉じゃない、アイツの言葉だったんだ。」 アポロはマイクが一から教えたボクサーだった。出会ってから6年の間、彼等はゴールデングローブスに勝ち、ナショナルで勝ってきた。マイクは明らかにアポロを誇らしく思っていた。マイクは言った。 「アポロは天才だ。」 それはアポロを知る誰もがそう思い、それ以上にマイクはそう信じていたはずだった、、、。 私の知っているアポロは両親や兄弟と一緒に暮らしている敬虔なイスラム教徒だった。マイクは彼が家族から離れないことを「外をこわがっているんだ。」と言い、それがアポロの弱い部分だといつも気に留めていた。 しかし私はそうは思わなかった。食事の前には両手を組み、練習を終えては祈りを捧げるアポロの姿は雑多な世の中でとても尊く見えた。確かに、家族と電話で長く話している時の彼は頼りなくもあったが、、、。 ウェスの試合などに訪れた時、アポロはいつも私を気遣った。ホテルで皆がテレビを見ている最中、彼は私が退屈そうにしていると思うと(実際は彼等と同じようにテレビを見ていた。ただ、理解がしきれなかっただけだった)。 「大丈夫か?」と、声をかけてきたり、話の相手になってくれたりもした。彼は優しかった。 二人でカジノにあるビュフェに食事に出かけた時だった、アポロは「タバコの煙は体に悪いから、」と言い、わざわざ遠回りをして、ビュフェまで歩いていった。それは私に新鮮な驚きを多少なりとも与えた。少なくともそのような驚きはアメリカのボクサーからは感じたことがなかった。そして私に思わせたのだ。 (彼はボクサーなのだな、)と。 あるいは私は彼に尊敬の念を抱いていたのかもしれない。彼は私の持つボクサーの理想像に触れている部分があったからだ。私は彼等にボクサー以前、それ以上を求めてしまう所がある。 「ノーリスペクトだ。」 マイクは言った、 「アイツはそのことを直接ではなく、電話で俺に言ったんだ。もう、俺はアイツが何を言ってこようと知ったこっちゃない。」 マイクは義理と責任あるいはメンツといった言葉の中に生きるような男だった。だから、ただ、私は遣る瀬なかった、、、。 予定されていたその試合の日、私は仕事を休みこの文を綴っている。綴りながらあの日から今日までを思い出し、私は気付くのだ。 たった一夜で、たった一本の電話で全てが終わった、私はそれを未だ信じられずにいるのだ、と。
(文と写真:中屋 一生)
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